椎野吾一の鐡道博物舘 別館(ブログ)

鉄道趣味歴は半世紀を超えました。備忘録です

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“さようならの向こう側”――「さようなら列車」を追い続けて42年

今は昔――。

日本の鉄道は輸送の王者として君臨し、毛細血管の様にそれこそ、国土の隅々まで路線を延ばしていました。
地域の発展にも、大いに貢献したのです。

鉄道斜陽論が叫ばれて久しいですが、年を追うごとに鉄道を取巻く環境は、非常に厳しくなっています。

鉄道を苦境に立たす要因。日本の原風景に敷設された「ローカル線」は、特に厳しい状況にあります。

理由として、道路の整備とマイカー時代の到来。高度経済成長以降、地方から都市部へと人口が流出したことと、少子化による過疎化。これは人口の希薄につながり、ローカル線最大のお得意様である学生は減少し、鉄道のメリットである「大量輸送」をスポイルしています。

国鉄が民営化され、「赤字ローカル線」を引き継いだ第3セクターは、軒並み欠損を計上。「公金の投入」には根強い批判も多く、施設や車輌の更新時期を迎えても資金の捻出は、ままなりません。さらに、「経営安定化基金」は枯渇しようとしています。

2000(平成12)年3月には、改正鉄道事業法が施行され、鉄道事業の廃止は認可制から届け出制へと緩和されたことにより、廃止が容易になったことで、「ローカル線」の廃止に拍車が掛かりました。

閑話休題。

「クソガキ鉄」が始めて廃止路線を撮ったのは、1972(昭和47)年1月16日、高徳本線の板野と鍛冶屋原間、6.9kmを結んでいた鍛冶屋原線でした。

高松にある母方の実家で、“たまたま”法事が営なわれたため、東京から“わざわざ”足を運ばなくても幸運にも「撮ることが」できたのです。

廃止になる前、鍛冶屋原には数回訪れていて、多少なりとも馴染みはありました。

鍛冶屋原線は、1968(昭和43)年9月に国鉄諮問委員会が「使命を終えたローカル線」を選定し、意見書に盛り込んだ「赤字83線」の一つ。結局、「政治的な事由」から、廃止になったのは鍛冶屋原線を含めて、16路線に止まりました。

その後、「赤字83線」に指定されたものの、一時は廃止は免れた「赤字ローカル線」は、硬直化した路線廃止に繋がる「特定地方交通線」に再び認定。最終的には、83線(3,157.2km)路線の命運が尽きたのです。

さて、鍛冶屋原線の廃止当日は、キハ30に『さようなら 鍛冶屋原線』のヘッドサインが付けられ、営業廃止の雰囲気を演出してくれました。四鉄の「さようなら」は、地味な飾りつけが蒸気時代からの伝統です。

初めての「さようなら列車」の経験でしたが、「ノンビリムード」が漂っていました。

沿線には地元の徳島県や近隣からやって来るファンが大半で、東京から廃止を撮りにやって来る「好き物」は、まだ珍しい時代。そんな事から、「クソガキ鉄」は、東京から“わざわざ”やって来たという触れ込みで、“ローカル放送局”のインタビューに答えることになりました。

初めて撮った“さようなら列車”鍛冶屋原線
キハ30に「さようなら 鍛冶屋原線」のヘッドサインが付けられた=1972年1月16日、板野駅


営業最終列車には、乗車して廃止を惜しみましたが、この時、何を思ったのか廃止最終日を今後も、全て「撮りまくろう!」と、思いついたのです。日本の鉄道が劇的な変貌を遂げることなどこの頃、誰が想像できたでしょうか。

1972年、山陽新幹線の新大阪駅~岡山駅間が開業した年です。

それから幾星霜。年月が流れ、「クソガキ鉄」は社会人として、某メディアで働くことになりましたが、学生時代と違い、「長期休暇」は取れなくなりました。

時代も変わり、「ローカル線」を廃止するどころか、累積赤字で苦しむ、国鉄の分割・民営化をも決定したのです。「クソガキ鉄」は国鉄の最後を記録するため、「(絶対に)許されない長期休暇」を申請することにしました。

幸運(強引)にも、奉職する会社の「ご厚意により(笑)」、記事を出稿する「約束」で一ヵ月に渡り「趣味と実益」を兼ねて、国鉄の最後を記録するため、北海道から九州までの縦断を決行しました。

「自分用」に撮影したポジフィルムは、宅配便で「堀内カラー」へ直送することで、大切な記録は現像へまわす事に。

国鉄が最後を迎える日は、「九州特急」の西鹿児島から東京まで、キャブ添乗取材をしたのですが、これは趣味誌に掲載されているので改めて、お話をしましょう。

全国で国鉄の姿を記録しましたが、一番のお気に入りは1987(昭和62)年3月23日に廃止された、士幌線「さようなら大平原号」の写真。同線には現役蒸気が走っている頃にも、撮りに来ている路線です。

体感温度マイナス15℃しかない隧道の上で、3時間も待機したことにより、「大成果(笑)」を上げる事ができました。

「さようなら列車」が来るまでの間――。
宇品線宇品駅では、倉庫に眠っていた筆字のサボをくれた駅員さん。高砂線野口駅で撮っていると“乗って行くか?”と、声を掛けてくれた運転士さん。沿線で撮影していると、必ずと言っていいほど、地元の方が「これ食え!」と採れたての果物を差し入れしてくれたり・・・。

国鉄の職員や、地元の人々との数え切れない程の「交流」が思い出されました。

士幌線:糠平~電力所(仮)さようならさようなら大平原号
士幌線「さようなら大平原号」=1987年3月23日、糠平~電力所(仮)


国鉄は分割・民営化され、「ローカル線」も、数多くの路線が「鬼籍」入りし、最近の路線図を見ると、まるで「鉄道黎明期」の様に、減少しています。

「さようなら列車」の追跡は「赤字83線」の鍛冶屋原線から始まり、1990(平成2)年4月1日、「特定地方交通線」第三次廃止対象路線の鍛冶屋線の転換によりひと段落しましたが、3,157.2kmもの路線が廃止(3セクまたはバス転換)されたのです。

廃止前には必ず四季折々、最低でも一回は訪問しカメラに収めることにしていました。廃止日が重なり、距離が離れている時は飛行機も利用し、最終日に間に合わせたものです。改めて「金を失う道」だと、実感しました。

その後も、赤字路線は次々と廃止され、国鉄を教科書の中でしか知らない世代が多くなったと思われる現在、鉄道趣味のあり方も大きく変貌したと思います。

22時22分、回送列車は函館へ。江差駅で「轍の音」を聞くことは出来なくなった
22時22分、回9139Dが函館運転所へ。「轍の音」を聞くことはもう出来ない=2014年5月11日、江差駅


いまや廃止最終日に出向くファンは、増殖の一途でそれらの人種のことを「葬式鉄」などと、揶揄していることは残念で仕方がありません。「言葉」が非常に不愉快極まりないです。この様な呼称(俗称)は、即座に止めるべきではないでしょうか。私見ですがファンのモラルも、一段と低下してしまったのですから仕方が無いのでしょうけどね・・・。

鍛冶屋原線の廃止から42年もの月日が流れ、多くの路線の最後を看取ってきた「クソガキ鉄」も今や「中高年」と呼ばれる領域となりました。同年代に生まれた車輌は、遥か昔に形式が消滅しています(笑)。

今回のブログのタイトルにある「さよならの向う側」は、昭和を代表するアイドル山口百恵さんのラストシングルから拝借しました。この歌詞には、“あなたのすべてを きっと私 忘れません さよならのかわりに”という、一説があります。

元「クソガキ鉄」は、これからも、「人々の生活を支え続け静かに使命を終える路線」の『すべてを忘れないよう』に記録したいと、思うのです。
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  1. 2014/05/31(土) 21:00:36|
  2. ■ 鉄道漫筆帳
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蒸気牽引1211レ「日南3号」とビンの穴

こんにちは。

ご無沙汰しております。
前回の更新から、時間が開いてしまいました。

これからは、定期的に“執筆”しようと思いますので、引き続きご贔屓のほど宜しくお願い致します。

それでは“クソガキ鉄”のころ、第4回目は日豊本線です。

C62の急行「ニセコ」が終わりを告げると、蒸気牽引による優等列車はC58の牽引する急行「大雪5号」が「華」として、残っていただけでした。

これを拝めることができるのも、時間の問題でした。

そんな時のこと。1973年10月のダイヤ改正で突如、復活した蒸機牽引による定期急行1211レ「日南3号」。
当時のファンを歓喜させたものです。

祝日法が改正され、「振替休日制の導入」がなされた年のビッグニュースでした。

宮崎機関区のC57が牽く急行「日南3号」。

京都発、都城行きの急行寝台は大分と宮崎で客車を解放し、残る7両編成を宮崎から終着の都城までC57が牽引します。 
マニ60+オハネ12+オロ11+オロ11+オハ46+ナハ10+ナハフ10を連ねて、ライトパシC57は日豊路を駆け抜けました。


1974/1/3 日豊本線 青井岳~田野 C57 169 1211レ
「日南3号」1211レ C57 169 青井岳~田野 1974年1月3日

1974年4月に電化が南宮崎まで延伸される僅かの間の出来事でした。

この運用は当時、運用合理化の一環、なんて囁かれました。
それにしても、国鉄は「行いの良いファン」に対して粋なプレゼントをくれたものです。

宮崎から都城まで、僅か50Kmの距離しかありませんが蒸気による急行運用の復活は正に奇跡。
美しいC57が日向路の夕日を浴びて、終着駅の都城に向う姿に大勢のファンが酔いしれたのです。

“クソガキ鉄”も、数回ですが「日南3号」を撮りに日豊本線へと足を運び、諸先輩方とカメラを並べることができました。

1211レ「日南3号」
夕日を浴びて「日南3号」が行く 田野~門石(信)1974年3月10日

当時はコンビニなど存在もせず、飲食物は「キヨスク」か(当時は結構)駅前にあった食料品店で確保するのが最善の方法でした。

得てして駅前の食料品店はブリキで出来た大きな「ファンタ」の看板を掲げ、それには屋号も書かれており、周りの商店を威圧する感がありました。

今では口にするのもはばかられる「菓子パン」と瓶入り「ファンタ・オレンジ」を「クソガキ鉄」は買い込みました。

「ファンタ」一本、60円ほどだったでしょうか。

このころ、「ファンタ」はオレンジ味以外に、「グレープ」味も販売されていました。

“クソガキ鉄”は必ず「オレンジ」を購入するという、こだわりを持っていました。

栓抜きを自宅から持参しての撮影行でした。

当時、スチール缶も存在していたのですが、地方ではまだまだ、瓶入りが一般的だった様です。

「ファンタ」のビンには底の側面に一箇所だけ、○あるいは□状の3ミリ程度の大きさのくぼみがありました。

“クソガキ鉄”の学校(東京)では、○は「甘口」で□だと「辛口」と信じられていて、私は買うときは必ず
店頭で○の穴が開いているビンを探しては買うことに決めていました。

そんな「こだわり」を持った“クソガキ”でも、お店の人は何も言わないで待ってくれたのは、旧きよき時代、ノンビリしていました。

1211レ急行「日南3号
日向杉の美林に囲まれて「日南3号」が目前を通過する 清武~日向沓掛 C57 169 1974年1月4日


件の穴はビンの製造工場の識別記号であり、中身のファンタに「甘口」も「辛口」も存在しないことが高校生の頃分かりました。

この「ファンタ」のビンの都市伝説。

”クソガキ鉄”は、○と□で味が違うと信じ込んでいたのですから、純情だったのでしょう。
今は悲しいかな、「俗物の塊」です。


DF50牽引の「富士」が梅雨払いとして通過した30分後。
美しい姿を保っていたC57の牽く1211レ「日南3号」が南国の陽射しも眩しい日向平野に、ブラストを響かせて足取り軽く目前を通過して行きます。

日向杉に囲まれて撮影したC57も九州特急も、本当の「伝説」になってしまいました――。

今回も最後までおよみいただき、有難うございます。

私事で恐縮ですが宝島社の「別冊宝島2162 日本のSL蒸気機関車」(4月14日発売)に、小生と所蔵するガラクタ類が数点、紹介されております。

ブログは“こんな人間が書いているのか”ということも判明しますので、お手に取っていただければ幸いです(笑)。

別冊宝島2162 日本のSL蒸気機関車

別冊宝島2162 日本のSL蒸気機関車

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  1. 2014/05/05(月) 21:33:57|
  2. ■ 現役蒸気 日豊本線
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2011年秋 りゅーでんさん主催の花月園運転会

11月25~27日の3日間、りゅーでんさん主催の「花月園」秋の運転会に参加してきました。
煩雑な日常から解放された3日間。好天に恵まれ、参加者との鉄道談義も楽しく、毎回、至福の時間を過ごすことが出来ます。

花月園外観

収容「定数いっぱい」の24名の参加者が集まりました。毎回、工作のヒントや刺激をいただいています。

この運転会、毎回「お題」が決められ、実に様々な車両が参加者から持ち込まれます。運転会に参加するための免罪符ではありませんので、念のため。

今回のお題は、「準急」、大集合のテーマは「形式51」、プチ集合が「下駄電」でした。


「準急」というお題。難問だと思いませんか。なかなか集まらないと思いましたが国鉄はECが80系の準急草津や153系、DCからはキハ55系が集まりました。民鉄は近鉄の車輌が。

私は「準急のホーロー種別板」を持参して、花を添えさせていただきました(笑)。

006.jpg

次は場面変わって、「形式51」。51

国鉄正式機C51やD51、DLはDD51が集まりました。他に151系やEF51なども彩りを添えています。

004.jpg
拙作、アダチのキットを組んだ超特急「燕」牽引のC51+水槽車、DCCサウンドデコーダー搭載機。(左から3両目)。ぼおるどういんさんがカツミ旧製品を、生まれ変わらせたC51たちも目を楽しませてくれました。

10年以上前に購入したスハニ35600+スハ32600(2両)+マシ37740+スロ30750(2両)+マイテ37020を、作らないと・・・。

最後にプチ集合の「下駄電」から。

002.jpg
電車区に並ぶ阪和線の73系は、ゴリガン瀬戸工房さんの手によるもの。スカイブルーのクモハ51が横に並びます。


003.jpg
153系のセノハチ越えのために改造された「オヤ35」。TMSに掲載された作品。種車はスロハフ30で、153系の出力不足を補うため、EF61と153系との連結器をつなぐ役割を担った控車です。湘南色に塗色変更され、旧客としては異彩を放っていました。「大之島鉄道」さんの作。


222.jpg
伊豆箱根鉄道株式会社 駿豆線3000系1次形は、「もりおか」さんのペーパーによる自作品。前面窓周り部分の出来が秀逸。

ホンの一部のご紹介ですが、鉄道模型誌上で秀作を発表されている方も多く参加、雑誌で見た「作品」を堪能できる眼福にあずかる3日でした。

終わりに、りゅーでん幹事さま、参加された皆さま。3日間、本当にお世話になりました。
来春もよろしくお願いいたします。

009.jpg
  1. 2011/12/03(土) 21:27:37|
  2. ■ 花月園運転会
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D51 3重連を連写! 連写!!

“クソガキ鉄”のころ、第3回目は伯備線布原信号所です。


モータードライブ。略して「モードラ」は、今や標準装備の時代。しかし、現役蒸気のころはオーバーな言い方かもしれませんが、『高級車』に匹敵する位の「高嶺の花」です。

ましてや「モードラ」対応機は、メーカー自慢のフラッグシップのみ。とても小学生が簡単に手にすることは不可能です。


母方の親戚筋には様々なキャラクターの方が居ましたが、某公共放送に勤めていたオジサンは、多趣味で新しい物が大好きな方でした。

外国製の大型バイクを買ったり、家には見たことも無い家電製品が鎮座していたり(暫くしてフードプロセッサーと言う事がわかりました)。給料の大半を趣味の事に使うという“粋な人”でした。

「カメラ」も好きで、なんと本格的な暗室まで自宅に持つという入れ込み方です。

私の事をオジサンは、わが子の様に可愛がってくれてました。


そのオジサンから「新しいカメラを買ったから、見においでよ♪」と電話がありました。「鉄道を撮っている」のを知っていたので、新しいカメラを見せたかったのでしょう。

母は「お前もヘンな子供だけど、あの人(オジサン)もヘンな人だわ。カメラなんか“また”買って…。」と呆れた様子でした。

そういう「ヘン」な子供を産んだのは「あなた」ですよ、とは言えませんでしたけど――。

数日経ってオジサンの家に行くと、「ニコンFフォトミックFTN モータードライブ付き」が置いてありました。

「ニコンFフォトミックFTN」は、1968(昭和43)年の発売当時、57,700円(クロームボディ)の値が付いていました。同年の大卒初任給が29,100円の時代です。趣味に生きるオジサンならではです。


振り返れば、私は母方の血筋をしっかりと受け継いでいる様です。


シャッターを切ると、機関銃の様な音のするモードラ付きのFを見て「すげ~な~」と思わず、感嘆の声を上げました。

オジサンはFフォトミックFTNを導入する前は「ニコマートFTn」を愛用していました。

「そうそう」と言うと、オジサンは今まで愛用していた「FTn」を私の手に預けると、「これあげるよ!」と言います。

ボディだけではなく、なんと交換レンズまでくれるというのです(オジサンはF購入と同時に、交換レンズを全て明るいレンズに買い換えていました)。

28ミリ、標準、そして135ミリの3本。夢の様な話です。

「天下のニコン様」を、たなぼたで入手。「ニコマート」でも、「ニコン」には変わりありません。

この「ニコマートFTn」。アメリカ海兵隊の制式機で、耐久性は折り紙つきです。
シャッターダイヤルは、レンズを取り付けるマウント部分にあり、絞りリングのように回転させてシャッター速度を決めるという、ユニークな機構を持つカメラでした。

Nikomat FTN
開放F値自働補正機構を備え、中央部重点測光を採用。外観は「写真機」のいでたち


後年、オリンパスが「M-1」で同様のシステムを採用しています。ファインダーを覗いたまま、絞りとシャッターを操作できる優れものです。

私は「ニコンで雑誌に載っている様な写真が撮れるぞ」と、ほくそ笑んだのです。今まで、写りの悪かったのは「全て、カメラのせいだ」と思い込んでいましたから(それまではオヤジ殿のミノルタSR-1を使っていました)。

「ニコマートFTn」のシャッタースピードは最高、1/1000秒というのも、“鉄”向きでした(ミノルタは1/500秒)。

学校から帰ると「ニコマートFTn」を手にし、カメラを手に馴染ませるため近場で「試運転」です。

当時は、国立に住んでいたため、中央線の101系やEF13、EF15をフィルムに収めました。


小学生の頃は夏、冬の休みは母の実家の高松に行くことが年中行事になっていて、田舎では毎日、高徳線のC58を撮影して喜んでいました。

残念な事に四国は動力の近代化を図る「無煙化」モデル地区に選ばれたため、牟岐、小松島、内子各線を最後に1970年の3月に蒸気は全廃されてしまいました。


進級から一月経った5月。今度の夏休みは高松から「何処へ“秀作”を撮りに行くか」などどと、机上の計画に励みました。四国ではもう、蒸気は撮れない。DLや琴電ではつまらないな、と贅沢で小生意気なことばかり考えます。

そこで、初めての遠距離「撮影行」を試みる事にしました。記念すべき初遠出の撮影地は「布原信号所のD513重連」にしました。

大阪で万博が開かれた年の事です。


布原信号所。蒸気機関車といえば「デコイチ」と言われるほど、蒸気機関車の代名詞の感があるD51。

3重連でその勇姿が拝めるとあって、老若男女問わず、全国から凄まじい数の人が同線に訪れました。ある三脚メーカーのカタログにはカメラの放列で、立錐の余地がない“お立ち台”の写真が使われたりしました。

前進基地からの遠征のため、祖母からのカンパもあるだろうし、資金は潤沢になるのは間違いない。フィルムはいつもの様にケチケチしないで済むと考えました。どこまでも小生意気な小学生でした。

よし、今回はフイルムをケチらなくて良いのだから、モードラの様に素早くフイルムを巻き上げて、コマ数を増やそう!―――と無謀な事を考え出す始末。

「ニコマートFTn」はシャッターボタンを半押し状態にしたまま、フイルムの巻上げができ、巻き上げ終了と同時にクラッチの掛かりもなく、シャッターが切れました。フィルム巻上げ角度は135°ありましたが難なく、「連写」の操作が出来ました。

秒間2コマ位の早さで、シャッターをレリース出来たでしょうか。


後年、キャノンが「連写一眼 キャノンAE-1」というコピーとともに、爆発的にヒットしたカメラを作りましたが、私の連写の方が早かったと今でも思います。

あっ、AE-1はワインダーでしたね。

「ニコマートFTn」は布原で大活躍。その後もよき相棒として、北海道から九州まで、蒸気の生き生きとした姿を余すことなく、記録してくれました。

私が「憧れのモードラ付きカメラ」を購入できた頃には、ニコンはFからF2に進化していました。
代わりに愛おしい「蒸気機関車」は国鉄の線上から全て、消えてしまいました――。

「ニコマートFTn」はその後、マウント交換、オールペイントをニコンの報道機材課(現・NPS)でお願いし、保存蒸気よろしく、静態保存中です。

布原(信)~備中神代 貨2492レ
布原(信)~備中神代 貨2492レ

布原(信)~備中神代 C58牽引 921レ
布原(信)~備中神代 C58牽引 921レ

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  1. 2011/10/30(日) 15:05:03|
  2. ■ 現役蒸気 伯備線
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函館本線① C62重連“つばめ”飛ぶ!

今日は139回目の“鉄道記念日”。今は「鉄道の日」と名称が変更されましたが、やはり、“鉄道記念日”の方がしっくりきます。

この日を前後して部品即売会が催されたり、工場や機関区などが一般に公開され、全国に出かけて行ったものです。

“クソガキ鉄”のころ、第2回目はC62重連急行「ニセコ」。現役蒸気の想い出を語る上でこの立役者を忘れる事はできません。

ある鉄道雑誌に「雪の中を行くC62重連“ていね”」(“ニセコ”の前身)の写真を見た私は、震えが止まりませんでした。同時に北の大地を駈け抜けるC62の重連に憧れを抱いたのです。

私は両親に『(こんどは)こんな写真を撮りに北海道へ行く!』と宣言。

当時の渡道は、今の感覚で言えば“外国”に行くのと同じです。

両親は「躾以外は放任」が信条だったため、小学生ながら両親の実家の四国・高松を前進基地にして、カメラ片手に西日本や九州へは、一人で放浪していました。

さすがに「北海道は、ひとりじゃ危ないから」と言います。熊に喰われる、そんな最悪の事態を思ってのことでしょうか。

しかし、どうしてもC62重連をカメラに収めたい。 交渉を重ね、旅館かホテルに泊まること、宿泊先から毎日、電話を入れることで、渡道のゴーサインは出ました。

心配性の母は、最期まで誰か一緒じゃないと“ダメ!”と言ってましたが、北海道に汽車を一緒に撮りに行く奇特な友人など居ませんし、小学生の身、「ふつうの親」なら許さないでしょう。

さて、北海道行きが決まってからは国鉄の本社に出かけ、運用を聞き、「C62重連」に備えました。また、不可欠となる「地形図」をより理解するため、先生に「読み方」を教えてもらったことは、後々まで役立ちました。その先生は「北海道かぁ、美味しい物が豊富だよ」と軽いノリでした。

「社会科」の先生でしたが、小学生に「狭山事件」なんかを教える変わり者でした。

春休みは、宿題がありません。通知表は何とか最低ラインをクリア。四谷大塚のまぐれで受かった選抜クラスは「欠席」です。将来のことは、自己責任ですから。

何が何でも「C62重連」が最優先事項でした。


東京を発つ日、上野駅まで母が見送りに来てくれました。「危ないことだけは何とか、かんとか」言っていましたが私の頭の中は「C62重連」のことでいっぱいです。

道南周遊券を片手に「はつかり」の車中の人となり、一路、憧れの北海道へと向かいます。

1971年、成田闘争がそろそろ激化し始めた年でした。


ふだんは、「ネ」に乗っても起きているのですが、直ぐに就寝。浅虫通過まで寝ていたと記録にはあります。グッスリ寝たためかどうかは分かりませんが、“青森走り”は一着で、青函連絡船への可動橋を渡れました。

明らかに「同業者」と分る人たちが 続々と、船室になだれ込んで来ます。当然、私より、年長者ばかり。小学生が北海道へひとりで行くのは当時、珍しかったと思います。

函館に着いてからは、DC急行に乗り換え、長万部経由で目的地「上目名」を目指します。流れ行く車窓を見ながら、「遠くへ来たんだなー」と感激しきり。

「上目名」には定時到着。「ニセコ」の通過まで時間がありますが、年長者鉄の集団に混じりながら、撮影地「キロポスト151」を目指します。

当時の私は「背丈は170cm近く老け顔」だったため、大人の集団に入っても、違和感はなかったと思います。


目的地に向かう間に同行者はひとり減り、ふたり減りしました。「キロポスト151」に着いた時には10人ほどに。駅を出る時の半分以下の人数になっていました。

旅装を解き、憧れの「ニセコ」の通過するまで、客レを撮影、腕試しです。


やがて誰からともなく、「来るぞー」との声。

私は「露出は良いか、フイルムの巻上げは良いか」指差確認でチェックをします。

数分後―――。


客車7両+郵便車+荷物車を軽々と牽引し、連続25‰の勾配をものともせずに、C62重連が駆け上がって来ました。

爆煙を後ろにたなびかせ、C622+C623の“ゴールデンコンビ”がまるでジェット機の様な轟音を残し、目前を通過して行ったのです。

呉線のC62は全力を出していないが、函館本線のC62は全力を出していると感じました。ドラフト音が全く違うのです。

C622号機のデフレクターには「つばめ」のマークが取り付けられています。スワローエンジェル。C622号機が東海道本線の宮原機関区に所属していた頃、特急「つばめ」を牽引していた時の名残です。

「つばめ」飛ぶ。

こみ上げてくる感動と衝撃。四半世紀以上前の事ですが、未だに忘れる事は出来ません。
感動という言葉を初めて体験できたC62重連 急行「ニセコ」。

時空を越える事が出来るなら、もう一度撮りたい。あの感動を、再び味わいたい…。
今持つ機材で撮ってみたい。かなわぬことですが、今でも夢に出てきます。

このあと、ニセコ詣では5回も続くことになりました。

小沢-倶知安間を行く急行ニセコ1号 104レ
1971/3/26 C622+C623 小沢~倶知安 急行ニセコ1号 104レ


熱郛~上目名 C62 2+C62 3 急行ニセコ3号 103レ
1971/8/18 熱郛~上目名 C62 2+C62 3 急行ニセコ3号 103レ


倶知安~小沢 ニセコ1号 104レ
1971/8/18 C622+C623 倶知安~小沢 急行ニセコ1号 104レ

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  1. 2011/10/14(金) 23:10:26|
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プロフィール

椎野 吾一

Author:椎野 吾一
■当ブログは、『椎野吾一の鐡道博物舘』の別館として、開設しております。

本館URL:http://www33.ocn.ne.jp/~railway/

151系のパーラーカー特急『富士』に乗車したことで、本格的に鉄道の魅力にとりつかれ、現在に至ります。

その間、蒸気機関車の終焉や、国鉄の分割民営、青函隧道や瀬戸大橋開業等のエポックメーキングに立ち会ってきました。

趣味歴半世紀以上。現役蒸気の撮影の想い出やコレクションなど、鉄道に関連したことを中心に書き連ねて参ります。ご笑覧下さい。


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